ヨハネ15:9にイエス・キリストの言葉があります。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」
1.イエス様はどんな風に愛されたでしょうか?
その誕生は、どんな人も経験しないような生まれ方でした。旅先の家畜小屋でエサ箱の中に産声をあげました。ここに愛を感じますか?愛とはほど遠いむしろ残酷とも思える状況の中にキリストは誕生され育っていかれました。
そして、その生涯は今で言うとホームレス、枕するところもない流浪の人生でした。この、人々を愛しても尽くしても仕えても報われない生涯のいったいどこに父の愛を感じておられたのでしょうか。
生涯の終わりはどうでしょうか?ホントに辛い生活をしてきたけれども最後はハッピーエンド…だったでしょうか。最後、彼は重い十字架を担がされて、嘲笑を浴びせられ、そうしてたどり着いたのは、どくろの丘と呼ばれる十字架の処刑場でした。
これらのいったいどこにキリストは父なる神の愛をお感じになったのでしょうか。
2.キリストが感じた愛
イエス様が感じた愛とはどんな愛なのか?教会にある愛は…、ご利益主義の表面的なものでは決してありません。
私自身も辛いことがあります。辛い悲しい泣きたい、投げ出したくなることさえあります。でもその時にこのキリストが感じられた愛を思うのです。それは「自分なんだ」ということです。神様はこの私の辛い状況をご存じないのだろうか、いや違う、逆だ。私は選ばれたんだ。父なる神は「この道」に「私」を召されたのだ。
父なる神は、御子キリスト以外にこの十字架の道を歩ませられる者をもっておられない。これを負えるのはお前しかいないんだ。この選びの中に父なる神の愛があるのではないでしょうか。
3.私たちへの愛
なぜ神は辛い道を私たちに与えるのでしょうか。聖書のヘブル書という箇所に「父なる神は愛する者を訓練される、受け入れるすべての子にムチを加える」と書いてあります。神は私たちを育てたいのです。もっと値打ちのある者に、もっと輝く者に、もっと深みのある人間にするために訓練してくださるのです。
イエス・キリストはどうして、あの苦しい道を神様からの愛として歩み抜くことができたのか。彼の見ていた世界は、時間の世界ではなく永遠の世界でした。私たちは物事を考える時に、時間の世界の中だけで考えます。そのわずか数十年の時間の世界の中で、あの人は成功しただの失敗しただの、やれ損をした儲かったと言って計ります。もし、そういう計りで計ったら、イエス・キリストの人生は大失敗です。しかし、キリストは何を見ていたか。この地上での小さな報いではない。やがて与えられる、天での素晴らしい報いの喜びを見ておられたのです。
私たちもまた、時間の世界だけを見ていてはいけません。この地上での小さな評価にうろたえることなく、父の評価がどう出るか、その父なる神の前に自分の基準を合わせていきましょう。
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